狩猟採集時代、栄養価が高く、手間のかかる渋抜きや灰合せによってアクを抜かなくても食用に適する栗は重宝されたはずですが、現在野生のクリの多くが自生しているのは原生林ではなく、人が原生林を開拓した後の二次林内である事から、原生林の多かった時代には自然界で劣勢のクリの数はそう多くなかったと推測されています。
縄文時代、気候が温かくなり自然の植生が変わる中、人口増加に伴った伐採や焼畑などによる原生林の開拓の結果、人間の居住環境の周辺ではクリを含んだ雑多な木が生え、クリは寒暖に適応性がある為、広域に広がっていきました。
愛媛県上黒岩の岩陰遺跡から発見されたクリの遺物はおおよそ一万年前のもので、この時代で発見された最古のものです。
200を超える縄文遺跡のうち、クリの出土した例は59箇所を超え、多くは野生のシバグリながら、縄文時代の三内丸山遺跡(青森県・約5500年前)などでは大規模な栗栽培の跡があり、当時から野生種だけを食べていた訳ではない事が分かっています。
縄文時代に始まったクリの栽培ですが、続く弥生時代でも稲作などと共に広く進んでいきました。弥生時代と古墳時代となると残された記録から、クリの栽培が明らかな形で紐解くことができます。
『古事記』では吉野から朝廷への献上品として栗の名前が挙げられています。
『日本書記』では近江国の粟津(現在の膳所)に栗林があり、クリは貢租にも使われていた事を読み取れます。
『持統天皇紀』では七年(693)の三月十七日に「詔して天下に桑・紵・梨・栗・青菁等の草木を勧め殖えしむ。以て五穀を助くとなり」とあり、古墳時代が終わっても庶民は主食が乏しく、その代用となっていた事が分かります。
『万葉集』の山上憶良の歌「瓜食えば子ども思ほゆ栗はめぼまして偲ばゆ……」からは、飛鳥時代や奈良時代の大宮人は、諸国から貢進したクリを味わっていた事が示されています。
奈良時代に編集された風土記で現在まで残っているものは、五ヶ国分しかありませんが、『常陸国風土記』では行方郡にクリが多いことが示され、『出雲国風土記』にもクリの記述はあり、『播磨国風土記』には若倭部連池子が仁徳天皇から賜った削り栗を揖保郡に植えたところ渋皮のないクリが生え、そこから村の名前を栗栖村という地名逸話が記されています。
地名としての栗栖・栗林は全国に多く、クリを栽培した土地や栗林の存在していた場所と考えれています。
現在、丹波には丹波市(合併前は氷上郡)青垣町に栗住野(もと栗栖野)、篠山市(合併前は多紀郡篠山町)に栗栖野、福知山市(合併前は天田郡)夜久野町に栗尾、綾部市に栗野・栗村、船井郡京丹波町(合併前は瑞穂町)に栗野があり、丹波に隣接する栗産地の大阪府能勢町に栗栖、大海人皇子(天武天皇)にクリを奉ったという京都府宇治田原町に御栗栖神社があります。
また平安時代の『三代実録』などに記される通り、クリは用材としても耐久性が早くから知られて利用されており、曰く「貞観8年(866年)正月20日から常陸国鹿島神宮は20年に一度の修造をしている。伏見の宮造りには栗材を多く用いている(意訳)」とあります。