さとうきびの原産地はインドまたは太平洋諸島

あるいは、その両方であると言われています。

また、沖縄でも、その原種が数多く発見されています。

砂糖を結晶させる製造法は

唐の大宗(西暦627~649)の時代に

インドから中国に伝わりました。

日本には、「唐大和上東征伝」の中に

西暦754年に来日した鑑真和上の積載貨物中に

「石蜜、蔗糖等、500余斤、甘薯80束」の記載があり

舶載品として、輸入されていたようです。

この頃は、貴重品であり、薬でもありました。

沖縄の砂糖が、記録に出てくるのは1429年

尚巴志(しょうはし)時代の朝鮮側の記録「李朝実録」が

初見であり

1461年に琉球王の使者が、天竺酒と誤って

砂糖を献上した  とのエピソードから

この頃の沖縄でのお砂糖がまだ、液体のシロップ状態で

あったことがわかります。

初期の砂糖作りは

・さとうきびを二寸ほどに切り刻む

・刻んださとうきびをつき砕く

・袋に入れて絞る

・絞り汁を鍋で付きっ切りで煮詰めて

・煮詰まったら、別容器に移して冷やし固める

という大変手間と時間がかかるものでした。

【二転三鍋法】

儀間真常(1557~1644)が家人を派遣し中国から導入した

二転三鍋法は、砂糖生産増大の大きな

原動力となりました。

この時代に、沖縄に、さつまいもと木綿が伝わりました。

二転子とはさとうきびを搾る車で

このページの画像は車が3個あるため

三転子と呼ばれます。

木製→石製→鉄製と改良されてきました。

三鍋法とは 品 の形に3個、鍋を置き

濃い汁を1つの鍋に集め

ついで、薄い汁を2つの鍋に次第に加えていく製造法です。

現在も、唯一 JA沖縄 粟国製糖工場では

左奥の鍋に、さとうきびの絞り汁をいれ

濃度が上がるたびに、順に右前の鍋に

人手で、移して、直火炊きで黒糖が製造されています。

徳川幕府の鎖国により

琉球の黒糖は、その市場価値が上がりましたが

カリブ海の砂糖プランテーション同様

薩摩藩の収奪に合い、

琉球のさとうきび生産者の生活は悲惨なものでした。

琉球支配前、破綻寸前だった薩摩藩の財政は

幕末、明治維新を迎える原動力の一端を担えるほど

豊かになっていました。

島が戦場となった第二次世界大戦

アメリカ統治を経て、沖縄での砂糖生産は現在に

至っていますが、

製糖工場は、ほとんどが、分蜜糖生産工場となり

わずか  粟国島  伊平屋島  多良間島

波照間島  小浜島  西表島  与那国島

の7島でのみ黒糖が生産されています。