おとえもんの丹波栗へのこだわり
丹波に名高い秋の味覚、丹波栗。
盆地特有の気候で育った栗の味は、まさに栗の王様です。
1.栗の語源
2.栗の栽培
3.栗の産地【丹波】
4.【丹波栗】
丹波栗の名が天下に轟くのは江戸時代のことです。
諸大名が将軍家に対して自国の名物を定期的に献上した『時献上』を参照すれば、日本六十余カ国、二百七十名にこえる全国の大名の中で栗を名物としたのは十指を超えるほどしかなく、一カ国五名の大名が栗を献上した丹波国は栗の名産地といえます。
文化元年(1804)の『武鑑(江戸時代の諸大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、相続、内室、参勤交代の期日、献上および拝領品目、家紋、旗指物、重臣などを掲載した年鑑)』によれば以下となります。
松平(亀岡藩) | 十一月 | 栗 |
小出(園部藩) | 四月 | 芽栗 |
十月 | 栗 | |
九鬼(綾部藩) | 十月 | 丹波栗 |
青山(篠山藩) | 寒中 | 丹波栗 |
小田(柏原藩) | 十月 | 丹波栗 |
江戸時代は貨幣経済が進み、物資の流通、人々の交通も頻繁となり、大栗の珍しさがもてはやされ商品としての需要も高まっていきました。
丹波地方で魚行商をしていた尼崎の商人達は帰路は丹波栗を持ち帰り、丹波栗の名で売り歩いており、参勤交代などで尼崎を通過した西国の武士達がこれを買い、江戸や郷里に持ち帰ったため広まったともいわれています。
その名は京、大阪、江戸はもとより各地へ拡がり、多くの書物に記されるようになっていきます。
「丹波国四七品、父打栗(巻四)」 | 俳諧書『毛吹草』 松江重頼 編 正保二年(1645) |
「丹波山中にあるものを上とす。その大なること鶏卵大の如し。諸州これを種う、状、相似たりといえども丹の産に及ばず」 | 本草書『本朝食鑑』 人見必大 著 元禄一〇年(1697) |
「栗に大小あり。丹波の大栗を勝れたりとす」 | 農書『農業善処』 宮崎安貞 著 元禄一〇年(1697) |
「丹波大栗、料理ぐりなり」 | 園芸書『花壇地綿抄』 伊藤伊兵衛 著 元禄八年(1695) |
丹波栗の名は丹波で産出された大栗を指しますが、当時の品種には、特大級を誇る『長興(光)寺』や『テテウチ(父打栗)』などが有名です。父打栗の由来には諸説あり(同じ名前でも特性などに地域差も見受けられます)、正確なところは謎のままですが、前者の長興寺は亀岡長興寺の僧が文禄年間(1592~1596)に広島から持ち帰ったという伝承があります。
江戸時代後半となると、接ぎ木など人為的な品種改良により『銀寄』種などが生まれるようになりました。
丹波栗を世に知らしめた、その二つの栗ですが、長興寺は栽培の難しさや収穫期の遅さで、テテウチは小粒といった理由などから、現在では殆ど作られていません。
全国に栽培されていた日本の栗ですが、昭和十六年頃に発見された害虫クリタマバチによる被害で日本中の栗園は大打撃を受け、以降はクリタマバチに抵抗性を持つ品種(銀寄や農林省技術研究所が開発し、昭和34年に発表した新品種、伊府・丹沢・筑波など)が主に育成されて現在に至ります。
最盛期の昭和53年では1,500トンを超えた丹波栗の生産量も平成18年では66.7トンと1/20以下に減少しており、兵庫や京都も例外ではありません。
近年は兼業農家の増加や後継者不足などの問題や都市近郊の住宅地開発などによる栗林の減少など、クリの前途には懸念も多いのが現状です。
日本の市場に出回る栗は約75%までもが輸入品、日本国全体での栗出荷生産量は約15,600トン(2009年)であり、生産高で見ても京都や兵庫の順位は8位より下に位置します。
丹波栗はその知名度と裏腹に生産量は少なく、国内でも高品質で貴重なブランド栗の代表といえます。
5.【丹波栗】の特徴
6.音衛門の丹波栗菓子
参考文献(敬称略)
「丹波史を探る」 1988年 細身 末雄 著
「クリ果実―その性質と利用」 2001年 真部 孝明 著
「新特産シリーズ クリ」 1996年 竹田 功 著
他